メッセージ



彡『希望という名の光』

 この有名な曲の歌詞のように、人生にはこの世でたった一つの命を削りながら歩き続けていると思える時があります。底知れぬ闇の中を歩き、かすかな光のきざしを探し続けている時があります。崩れ落ち、泣き続ける夜があります。しかし、移りゆく時代の中で、泣き続けなくてよい、わたしたちを生かす愛の絆、わたしたちを照らし続ける希望という名の光があります。その光こそ、わたしたちのために苦しみ、死なれ、復活され、共にいてくださるイエス・キリストなのです。


☆彡居場所

 誰にとっても自分の「居場所」が必要です。人と一緒にいても自分だけ居場所がないと感じる時の寂しさ、惨めさほど辛いものはありません。人は自分の居場所ということにとても敏感で、闇の中でさ迷うように、自分の居場所を探し、自分の存在を受け止めてもらえる場所を求めて生きています。「あなたは大事な存在だ」、「あなたが必要だ」と一緒にいてくれる存在を求めています。

 神の子イエス・キリストは居場所がなく、孤独を抱える者に「インマネエル・神は我々と共におられる」ということを伝えるために傍らに来てくださいました。イエス様は居場所の無い者に居場所を与えるために、飼い葉桶にお生まれになって下さいました。このイエス様こそ希望なき者に希望を与える光、暗闇の中の光であり、私たちの居場所がそのイエス様のもとにあるのです。私たちが人生の途上で、一切を失い、自分の居場所だと思っていたものさえも失っても、その時こそ、私たちに何もないのではなく、イエスの飼い葉桶がある、私たちを本当に大事な存在として受け止め、共にいて下さるイエス様がおられ、神が共におられることを思い起こしたいのです。イエス様をとおして神の心の中に自分が存在していて、この自分を神が信頼し、愛し、必要としてくださることを知るのです。そのことが私たちに力を与えるのです。

 


☆彡最も美しきもの

 人に感動を与える美しきものの基準は人によって様々です。

 でも、聖書の美は、broken beauty、「美の破れ果てた美」、「破たんした美」と呼ばれます。フォン・ラートという旧約聖書の専門家はこのように言いました。「神ご自身がみずからを放棄したもうまでに、わたしたちの歴史の中に降下したもうた事実。この神の降下という史実にこそ、あらゆる美の極みがある」。

 聖書が語る最高の「美しさ」は調和のとれた美ではありません。苦しみや矛盾を努力して乗りこえた美でもありません。美しい容貌、人より優れた能力や力、人より高みにある権力を持つことでもありません。

 神の独り子であるイエス・キリストは、深い淵にいる私たちのところに「飼い葉桶に寝かされた乳飲み子」としてご自分を捨てて低く来てくださり、わたしたちと共に、わたしたちのために苦しみ、十字架で死なれ、復活されました。ここに美の極み、美の中の美があります。調和というよりは不調和、矛盾を抱えているもの、愛するに値しないものを極みまで愛し、受け入れ、担い、新しい道を切り開く神の愛が示されています。

 この神の光の美しさに触れて、神を仰いでいく時、立ちあがる力を与えられます。この神を仰ぐ時、わたしたちも美しく光り輝きます。礼拝はこの神を仰ぎ、美の極み、最も美しきもの、イエス・キリストの光に照らされていく時なのです。


☆彡豊かな命に生かされる

 星野富弘さんという方が苦しい時にイエス・キリストに出会って作った詩があります。

 「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった。」 命よりも大切なもの、それはイエス・キリストではないでしょうか。キリストにつながってこそ、わたしたちは新しい、豊かな命に生かされるからです。全てを負って見捨てずに共にいて下さるキリスト、あるがままに愛し受け入れ、必要として用いてくださるキリストです。無力さのなかで何もないと思えていた自分に与えられているキリストの豊かな命と恵みがあります。このキリストを信じる時、生きているのが嬉しかった、と言える幸いを与えられているのです。イエス・キリストの光、十字架と復活の事実の光から、わたしたちとこの世界の運命を見ていくとき、暗闇ではなく、希望があることを知るのです。


☆彡神の栄光をあらわすために

 石切り場で働いていた二人の職人がいました。石切は川の傍らで石を切り、船に乗せ、町まで運ぶ仕事です。ある人がこの二人に問いました。「お前はそこで何をしている」。一人はつまらなそうな孤独な声で「石を切っているのさ」と答えます。意味のない単調な仕事に思えたのです。しかし、もう一人は喜びに満ちた声で答えました。「私はカテドラル、つまり、教会堂を建てている」。一人の人は自分の人生と仕事を自分の今していることからしか理解できません。しかし、もう一人は自分のしている仕事が大きな教会堂を建てる仕事の一つだと理解していました。自分の人生が究極的に神の栄光を現すために用いられているのだと知ることは私たちにとって大きな慰めであり、喜びです。

 


主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない。(詩編34編6節)